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マイセンブルーオーキットポット   30%OFF

マイセンブルーオーキットポット   30%OFF

  • マイセンブルーオーキットポット   30%OFF

  • 販売価格

    92,400円(税込)

  • 会員価格

    83,151円(税込)

  • 定価

    132,000円(税込)

  • 在庫

    1

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  •  
    口径 9cm
    本体直径 28cm
    横幅 25cm
    材質 磁器
    生産国
    Made in Germany

     

  • マイセン (ドイツ)
     中国のみが生産できる、硬く、薄く、叩くとチンチンといる涼やかな音がする磁器を、自分たちの手でも焼こうとしたことは、中国の外の国々の人たち、特に陶工たちにとっては長年の夢であり、多くの試みが各地で行われたことは自然のなりゆきであるといえる。 試みを繰り返しヨーロッパの窯業家たちにも、最終的に磁器を作るには材料となる陶土、あるいは磁土の配合こそ大切な鍵となることがだんだんわかってきた。そして1709年、ドイツのザクセン王国の首都ドレスデン郊外にあったマイセン窯がついに磁器を作ることに成功する。 当時のザクセンの王フリードリッヒ・アウグスト二世(強健王、1670~1733年)にはなんとしてでも磁器を作りだしたいという強り希望があった。軍資金の捻出というお国の事情があったのである。 当初、軍資金の不足をアウグスト王は錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベットガーに金を作らせて補充しようとした。そもそも錬金術によって金を作ることが不可能であることは今日多くの人の知るところであるが、当時すでにヨーロッパの人たちも鉛をはじめとする金属の合金では金ができないことはうすうすわかってきていたようである。そこで王が目をつけたのは、中国と同じような磁器を作り、それを高く売ることであった。すなわち磁器は金と同じくらいの価値があったのである。王はベットガ―のみではいささかたよりなく思い、1694年より、科学者として王につかえていたE・W・フォン・チルンハウゼン(1651~1708年)にも磁器作りを督促させることとし、この二人に至上命令として磁器作りのプロジェクトに取り組ませることとした。 いったいこの磁器製作がアウグスト王の軍資金としてどれほどの役にたったかは不明である。しかし、今までドレスデンの町の中のベヌースバスティにあった窯場を郊外の要害の地であり、今も窯場のあるアルブレヒト城の場所に1710年に移し、「王立ザクセン磁器工場」を設立し、国家事業としてヨーロッパ最初の磁器が生産されるようになった。


     磁器製作の鍵はいずれにせよカオリナイトで、ザクセンとボヘミアの国境近くの山岳地帯で採集される、当時白いカツラに使用した粉(髪粉)がベットガーが探していたカオリンであった。当初それに大理石の石灰分を加えて材料としていたが、後に石灰は長石に代えられ、より質の良い磁器が焼けるようになった。それと釉薬の調合も大切な要素で、ベットガーもそれには幾度も失敗し苦労を重ねたので、その配合を大切な秘密とし、彼が、死ぬ前には、アウグスト二世の延臣の二人に磁土と釉薬の調合を別々に教えておくという慎重さをもって磁器製作の技法をマイセンにおいてのみ独占できるようにつとめた。そして、ベットガーは38歳の若さで1719年春に亡くなる。 彼の死後、マイセン窯はヨハン・グレゴール・ヘロルト一族によって引き継がれ、さらに改良を加え、1725年には染付磁器や色絵の製作に成功している。 基本的には初期は、中国風のものを作ることに努力した。その中には色絵や金彩で、瓶やティー・ポット、カップ・アンドソーサーに、中国服を着、彼らがクーリー・ハットという帽子をかぶった人物像や、パゴタ・デザインと通称する楼閣や東屋風の建物などが描かれたが、それらすべてがシノアズリーの流行とともに喜んで使用されたデザインである。またシャルロッテンブルグ宮殿のみならず特にドイツ等の宮殿や館の内装に、クーリー・ハットの代わりに深鉢をかぶり八字形にたれた髭をつけた人物の頭部が飾られている。 われわれ日本人としてちょっと誇れる話がある。マイセンで当初は中国風の朱泥や白磁の観音像などを作っていたが、しばらくすると日本の伊万里焼、特に柿右衛門スタイルのものが現れ、その後マイセンのみならず日本の柿右衛門デザインがヨーロッパ全土に流行するという現象がおこった。 そして、マイセンでは、それら伊万里の柿右衛門手をかなり正確にコピーしている。とはいえ、中国や日本では毛筆による絵を描く第一歩として運筆の訓練から始めるが、マイセンの絵付匠はそれを知らないから、竹の節や竹の葉の描き方に注意をはらうと、日本製かマイセン製かの区別がただちにわかる。また、虎や龍も同じように構図上、それが描かれる位置がどうも不自然にわれわれの目にはうつる。これらとは別に、白地の磁器胎は中国のものであるが絵付はほとんど中国と同じ文様でありながら、デルフトでしたものがある。おそらくマイセンでも同様に、そのような極東製の磁器胎に彼らの手で絵付をしたり、金彩を加えることがあったと考えられる。 さて、マイセン窯ではいつまでも中国風のものを焼くのではなく、1712年にグレゴール・フリッツ、1727年にはヨハン・ゴットフリート・キルヒナー、そして1731年に有名なJ・J・ケンドラ―の彫塑家たちが集められ、東洋風人物像、動物像、天使やキリスト教にモチーフをとった群像、ロココ風の当時流行した田園における饗宴や生活をモチーフにした群像の製作が始まった。特にケンドラ―の作る人物像などは卓上のアクセサリーとして喜ばれ、近頃日本にも次々と輸入され目にすることができる。マイセン窯を語らずして今日のヨーロッパの洋食器を論ずることはできない。その後の盛衰はあるが、第一次、第二次世界大戦をくぐりぬけ、今日もマイセンでは生産が続けられ、微妙な違いによって窯のいつ頃の作であるかがわかる窯印の記憶が残されている。またケンドラ―の作った彫塑風の人物像をはじめとする鋳造の型などは今も保存されており、器物の裏底に藍色で描かれた二本の剣の交差したマークも、少しずつ年代によって違いがあるが、世界の多くの人に今日も愛好されている。十八世紀初期より彼らがいかにマイセンの磁器作りに力を傾け、しかも今もってそれを誇りとしているかが、これらのことからもうかがうことができる。

     マイセン(戦後)
     1709年にマイセン窯が磁器を初めて製作したことにふれたが、第二次世界大戦後の1960年に「芸術創造のための集団」を編成し、ドイツ民主共和国(東ドイツ)政府がそのリーダーシップをとり、当初の東ドイツの各種の美術学校と連絡をとり、マイセン窯の「教育システム」「デザイン」「素地形成」「絵付」と、それぞれを分業システムとして確立、その流れに力を入れた。1969年、公団の新総裁となったカール・ペーターマンは「良き伝統から新しき創造へ。マイセンにおける新しい作品とは、伝統という制約を創造的に拡大していくもので、伝統という造形と仮にも対立するものではない」と述べている。 特に1973年ツェプナー(原形部門)とハインツ・ヴェルナー(図案部門)が「花形口縁」の食器、日本流にいうと輪花形の食器を復原し、サーヴェス、すなわち組揃食器として生産するなど、新しい試みを次々と行い、現代風の色彩感覚ももりこんだ。ドイツ統一後はザクセン州立マイセン磁器製作所として新たな出発をしている。

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